完成にはまだ時間のかかる令和怪奇画報ですが多くの皆さんに注目していただき、感謝と救われる思いで不安も軽減されました。
今から30年以上も前ですが、僕が20歳の頃、怪奇画報の復活を出版編集者に提案した事があります。当時僕は怪奇漫画にも興味がありましたので、その打ち合わせに立風書房という出版社に行っており、漫画の企画と並行して怪奇児童書を新しい感覚で出しましょうと提案し続けていました。
立風書房というのはかつてジャガーバックスというレーベルで「日本妖怪図鑑」などの怪奇児童書の名著を出したところです。
それが実現されていれば、平成怪奇画報というものが今存在しているわけですが、存在していないのはつまり企画が通らなかったという事です。理由は色々ありますが、もっとも大きな理由として、アイデアややる気はあれど、僕に怪奇画を描く技量が無かった事。
今となれば編集者の判断は当然で、当時の自分の無謀さに失笑します。
そして30年経った今だから、僕は令和怪奇画報が実現できると判断しました。30年の間に思った事はまず出版編集者は怪奇児童書の復活に興味がなく冒険もしてくれないという事です。僕自身、平成の30年間その実現に向けて動いた事はありません。心の片隅に常に怪奇画を描きたいと思い続け、生活のため、あるいは時代の流れに合わせ漫画業界で生きてきました。
約10年前くらいに、漫画におけるペン画ではなく、カラーで、重みのある一枚絵を描きたいと思うようになり、ある自費出版の本に漫画を依頼された際、コマを割った漫画形式ではありますがあえてオールカラーの筆塗りの絵で、漫画を描きました。その後、その本の依頼ではコマの数を少しずつ減らし、最終的には2ページ見開きの一枚絵で掲載してもらいました。
僕のような怪奇児童書を好きな誰かがその本を読む事を信じ、試みた事です。ちなみにその本は、怪談やオカルトライターで著名人な吉田悠軌さんが中心となった「怪処」という本です。
僕の漫画というものへのささやかな抵抗は、洋泉社の『別冊映画秘宝』の編集長である田野辺さんに届き、何年間か映画秘宝に怪奇画を掲載する機会をいただきました。いわゆるイラストレーターというものにはなりたての僕は昭和の怪奇画にならい、最初は水彩画で描いていましたが、何度か掲載を重ねるうちに水彩画の限界を感じ、「キングコング髑髏島の巨神」のイラストを描く際、アクリル画へ転向しました。その後の「ヘレディタリー継承」や「サスペリア」のイラストが掲載された際、自分なりに手応えを感じ、アクリル画でならかつての怪奇画報を超える表現ができ、僕の怪奇画も怪奇画報というジャンルにおいて通用するという実感を得ました。
そこからは、正月も休日も無しで怪奇画を描き続け、新たな怪奇画報へ向かっていったのです。
ただし、A3サイズのアクリル画は制作に数十時間を要します。これが怪奇画報実現の一番の問題でした。働きながらでは一冊出すのに数年かかってしまいます。出版はこの時代、個人でもできますし、編集もパソコンがあればできます。インターネットで皆さんからの声も聞け、宣伝もできます。資金も貯めました。あとは仕事をやめて作画に集中する生活にすれば半年に一冊作れる条件が揃います。
この条件が揃うのに30年という時間はあまりにも大きい気がしますが、僕の絵描きとしての技量の向上も含め、必要だったのかも知れません。さらに一度挫折した目標だからこそリスクを抱えながら頑張れるのかも知れません。
漫画から学んだものも多いでしょう。テクニックや謙虚さや様々な物を年齢を重ねる上で得た事は間違いありません。
きっと、人生に無駄な時間などないのです。挫折も含めて。
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