令和怪奇画報の出版を決めた時、各巻の題材をどう決めていくか、どんな順番で展開させていけばいいかを考えました。
まだ元号が平成だった頃、ウェブサイトを使って無料で閲覧できる怪奇画報を作ろうかとも思っていました。その頃はある企業の作画仕事で日々疲弊し続ける仕事量を点滴を打ちながらこなしていたので、その仕事が終わってから毎日2時間か3時間、怪奇画に時間を割き、月一枚程度を完成させる感じでした。
元号が令和になった頃、それまでの仕事を一切やめれば、年間60枚程度の怪奇画が描けると気づき、貯金を元手に出版し、昭和の怪奇児童書のような本というかたちで皆さんにお届けしようと決めたのです。幸い、多忙に仕事をこなしていただけあり、月収もフリーの絵描きとしては相当な額を稼いでいたのがフルカラーでの自費出版を現実的なものとしました。
それが令和元年の夏で、ちょうど「河童」の絵を完成した時でした。
「河童」と「鎌鼬」で葵と緑というセーラー服の女子高生を怪奇画に加えた事で、皆さんにご好評いただき、第1巻は自然に「妖怪編」となりました。
妖怪という題材が人気の高いものであるという事、僕が最初に出会った怪奇児童書が「日本妖怪図鑑」だったという事も理由になりました。
当時、もっとも手掛けたい題材は「人喰い熊襲撃編」でした。
以前、クマの獣害について数年研究をしており、北海道にも100日近い日数をかけて取材をしたクマという題材には思い入れがあるだけではなく、昭和の怪奇児童書には無い題材であるのも出版する意味があると考えたからです。
しかしながら、この活動の資金は数年かけて貯めた400万円だけで、仕事をやめての制作ですので、印刷代や画材代、家賃やその他生活費を常に確保し続けなければならないわけで、大きく売り上げが低い巻があれば、そこで活動は終わってしまいます。
ですから、クマは少しあとにしておき、第2巻をどうするか考えました。
そこで「人類滅亡編」を2冊目にすれば、内容の幅広さ、娯楽性の高い作画が多くなると思いましたが、何か釈然としないものがありました。
それは、妖怪というものの次にくるのは終末的恐怖ではなく、妖怪という怪奇と人類滅亡の怪奇の間にくるものを間に入れた方が美しいと気づいたからです。
妖怪というのは、江戸時代から明治時代まで新聞に記事が掲載されたようなもので、不可思議な自然現象に理由を求めた結果生まれたものです。
都市が発展し、自然との関わりが薄れた時、妖怪もまたその存在が薄れました。
次にきた都市伝説という恐怖こそ、我々自身に直接襲い掛かる恐怖だと思い、妖怪編の次はこれしかないと決まりました。
人類滅亡編は発達した科学や文明の末路を描くので、恐怖の時系列として正しいのです。
自然→殺人鬼→文明の崩壊という順ですね。
怪異都市伝説編が二冊目に決まったのは、こういう理由です。
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